木造家屋の立ち並ぶ住宅地を歩いていると、この辺りは秋男にとってもどこか懐かしいような気がした。奥には青い山稜が薄靄(もや)に包まれてぼんやりと控えている。石橋に差し掛かると、川は緩やかに湾曲し遠くまで伸びていて、流量はごく僅(わず)かで川底の藻が覗けるくらい、ミドリガメが甲羅を干し、川縁に立ち並ぶ民家の出窓には吊るし柿が干してあった。秋男はふらふらと歩きながら日溜りに立って白昼夢を見るような、心地の良い浮遊感に浸っていた。秋男はこういう郷里を持たないから、ここでは夏女の郷愁を借りて歩いた。

「火取虫」に登場するあんみつ屋は、徳島市内に実際に存在する店がモデル。窓から神社の急な階段も見える=徳島市

 地元めぐりは夏女が通ったあんみつ屋から始めることにした。あんみつ屋は長閑な住宅地の丁字路の角にあずき色の暖簾を下げていて、夏女によれば怨憎煮(おんぞうに)が美味いのだという。ふたりは靴を脱ぎ、上がり段になっている畳敷きの席で怨憎煮を食べた。椎茸の香る澄まし汁の中に平べったい丸餅が二個入っている。「あの神社で餅つき大会があってね、目立ちたがりな子供だったから我先に餅をついたの」と、夏女は箸の先で憎煮の餅をほじくり返す。十字の格子が入った小窓から向かいの神社の鳥居が覗けた。鮮やかな朱色の鳥居は堂々たる構えで、見上げるだけで目眩(めまい)のするような傾斜のきつい階段が遥か上方まで続いていた。近くに停まっていた数台の車や自転車は神社の参拝客のものだったようだ。あんみつ屋にはふたりの他には誰もいなかった。

 「あれって子供の力では途中で止められないのね。杵(きね)をいっぱいまで持ち上げたときに餅の中にさっとカマキリが飛び込んで、いや、すぐにはそれがカマキリだって分からなかったと思う。葉切れかしら、それとも外の色の残像かしら。でも止められないからそのまま勢いよく餅を潰(つぶ)した。潰してから、あれは確かにカマキリだったって気付いたの。デジカメのプレヴュー機能みたいに、一瞬遠目で見ただけの像が脳裏にありありと浮かんできた」節の目立つほっそりとした体を横たえて、水ぶくれの眼でこちらを向いている。藻掻(もが)いて持ち上げようとしている両手の鎌には白い粘々が絡みついて動けなくなっている。恐る恐る杵を持ち上げてみると、カマキリの体は花のように散っていて、足か触覚だった部分が鼻毛のようにぽろりと取れて餅の上に映えていた。

 日が翳(かげ)って店内が暗がりに落ち込み、振り向くと厨房の方から壁を打つような鈍い殴打音が繰り返し聞こえていた。近くで解体工事でもしているのだろうか。何の音だろうかと夏女に目配せすると、夏女は構わず話し続ける。

 「いかにも子供らしい思慮の浅さで、とにかく隠さなくちゃと思って、何度も何度も必死に餅をついたわ。消えるまで何度も何度も」

 すると日陰の鼓動がつられて激しく聞こえた。

 秋男は夏女に手を引かれて彼女の母校へ忍び込んだ。後ろ暗さに付きまとわれて、警備員や教師らに見咎(みとが)められないかと気掛かりだったが、幸い長期休暇中の学校には人影は見られなかった。

 食堂の扇状に張り出したガラス壁の内側で、赤い椅子が五脚ずつテーブルに伏せて乗っけられているのを見た。校舎の反対側から運動部の掛け声がかすかに漏れ聞こえている。薄暗く沈んだ食堂の奥で一秒くらいかけて光が横に流れ、消えて、間をおいてまた同じように光った。その光の瞬く方を見遣(みや)ると、奥の柱に設置されたコピー機が白光を発している。横断する光を浴びて彼らの方に背を向けた制服姿の女生徒が一人、印刷されて出てくる紙を次々足元にばら撒いていた。ガラス越しに見守る秋男にもコピー機の動作音が聞こえてきて、降り積もるA四用紙に印刷された猫の写真のべっとりとしたインクのにおいが鼻を突いた。とぅくとぅくを探すビラを刷っているのだと、夏女は白い光暈(こううん)に縁取られた女生徒を見つめて言った。

 「とぅくとぅく?」秋男は反復したが、果たして聞き取った音が正しいのか自信がなかった。「逃げ出した猫。元からいなかったんだけど、探したら見付かったの」と、さらにこんがらがったことを言うので、秋男はたまらず鼻をすすった。

 吐き出した紙を押さえるコピー機の二つの爪が猫の差し出すいじらしい前足に似ている、と女生徒は考えた。猫は左手が生まれつき不自由で、たまにお化けの手のように力なく折り曲げて宙に浮かせていることがあった。ビラには毛並みの次にその特徴を載せた。とぅくとぅくの写真はネットから拾ってきた知らない猫の写真だ。十年も前の投稿を最後に更新の絶えているブログに出てきた小麦色の猫は、もしかするともう死んでいるかもしれない。しかし今は女生徒の頭の中でとぅくとぅくという名前の前足に障害のある猫として生きている。そもそもどうして猫を飼っているなどという嘘を吹聴していたのか、夏女は最早憶えていないが、嘘を真に受けた同級生たちが猫を見たいと騒ぎだして、断り切れなくなった夏女はとぅくとぅくの失踪を捏造(ねつぞう)したのだった。その辛い事実を打ち明ける彼女は泣いていた。自分でも意外な涙に夏女は泣きながら声を上げて笑ったが、心優しい同級生たちはその笑顔をも強がりと取って尚更同情し、町中にビラを配りまわって必ずやとぅくとぅくを見付けようと決起した。そして捜索の甲斐がありとぅくとぅくは発見された。小麦色の毛並みが艶々と綺麗なアメリカンショートヘアで、撫でると長い尻尾をピンと立てて人懐っこく体を擦り寄せてきた。膝の上に乗せてきた左前足はやはりだらんと力が抜けていた。夏女は一目見て、「これは私の猫だ」と喜んだ。

 秋男は電柱に寄り掛かり、彼女が入っていったクリーム色の外壁をしたアパートを見上げた。二階の右奥から三番目の一室が夏女の生家だった。両手に持たされた紙袋の把手(とって)が掌(てのひら)に食い込んで痛い。秋男は紙袋を疎ましく思った。紙袋というのは実際の中身よりも重量を増してぶら下がるのだ。殊にこういう旅先で途中から参加してきたような紙袋は人を疲れさせようという悪意に満ちている。人の手を噛んだり、嵩張ったり、気分で破れたりする。そのせいで旅行の思い出は、帰路における紙袋の煩わしさばかり。

 夏女は一向に出てくる気配を見せなかった。久しぶりに会う父親と話に花を咲かせているのだろうか。秋男は置き去りにされたような侘しさを感じずにはいられなかった。

 アパートが日暮れを察して自動点灯した。近くを飛んでいた虫が灯りに群がりはじめ、秋男は痺れを切らしてエントランスを覗きに行った。タイル張りの足元には蛾の死骸が秋雨に濡れた枯れ葉のように張り付いていて、秋男が中へ踏み入ってみると、玄関は短いトンネルのようにそのまま建物の裏側へ抜けているばかりで、階段にも廊下にも繋がっていなかった。裏から建物の外壁を見上げても入り方が分からない。外に非常階段もない。アパートは口を塞がれたらしい。それとも、秋男は張りぼてに騙されて無意味に待ちぼうけていたのかもしれないと自嘲気味に思ってみた。その時秋男の背後を夏女が足早に通り過ぎたのだ。いや、似ている別の人かもしれない。夏女だとしたら秋男を無視してどこへ行くのだろう。秋男は距離を取って夏女の後ろ姿を追いかけた。山を巻くように伸びる県道をひたすらに直進し、途中同じ方向へ走るバスが何台も秋男を追い抜いていった。道は緩やかに上り坂になっており、山へ入っていく道だと分かった。次のコンビニで夏女に追い付いて話しかけようと決めてから、ぱたりと商店の類を見なくなった。秋男は両手に提げた紙袋を頻繫に持ち直し、把手の食い込んだところから痺れがじわじわと拡がって、両手が無感覚になってきた頃に立ち止まった。

 夏女が石塀に顔を張り付けている。寝静まった寺の中をじっと覗いていた。夏女が進んでから同じ穴を覗いてみると、寺の堂内で人形たちが極彩色の地獄を演じていた。一人は相手の脚に指を刺し込みオレンジの皮を剥(む)くようなやり方でふくらはぎを割っていて、いま一人は相手の舌を引っ張ってネクタイでも巻いてやるように首にひと回ししてから先端を口に咥えてのけ反り、結び目をぎゅっと引き締めている。そうして絡み合っている二体の蝋(ろう)人形は同じ回転台の上に立って、ぎこちなく時々引っ掛かりながら時計回りに回転していた。一度見知ったものがそれからやけに目に付くようになるのは道端の雑草や他人の顔についても言えることだが、秋男は道すがら民家の隙間や電柱の陰や田んぼの向こうに多数の地獄像を見つけた。鬼が雑巾を絞るように人の体を捻じって、錆びた空盥に赤茶色の血を滴らせていたり、岩の上に捨て置かれた人形の腹に赤く爛(ただ)れた五花弁の花が咲いていたり、車が何かを轢(ひ)いていった跡を見れば、アスファルトに蠟(ろう)人形の腕が砕けていた。

 麓まで来ると白線は道路の際に引かれて歩道は消えた。車が膨らんで秋男を避けていった。藪から突き出すようにして首を垂れた枝をくぐり急勾配のカーブを抜けると、紫かピンク色のネオンでハローピエロと書かれたモーテルの看板が見えた。その向かい側もホテルだったのだろうか、とっくに荒れ果てて野草の生い茂る廃墟になっていた。怪しげなホテルの前を通り過ぎる子供たちは、その点灯する看板に恐れに似た憧憬(しょうけい)を抱くのだ。夏女は幼心を手掛かりにたどり着いた。かがり火に飛び込む夏の虫のように籠の中へ吸い寄せられていく。

 光の粒子が層になってテレビ画面から伸びていき、ベッドで眠る夏女の額を照らしていた。開け放しの冷蔵庫から鳴るような機械の警告音が秋男の頭で鉦をたたく。秋男は冴え渡るほど疲労していた。運んできた紙袋に煉瓦のように積まれた黒いビデオテープの山から気紛れに一枚を取り出してデッキに差し入れた。するとデッキの奥で虫の潰れる音がして、しつこい鳴き声がぴたりとやんだ。

 画面に幼い少女の静止画が映っている。画面を割るように横向きの稲妻が走り映像が動き出す。遠くに舞台が、客席の頭の向こうで黄色く照っていた。舞台上には統制のない子供らの一団が手持ち無沙汰に待たされていて、照明が絞られ笛と鉦の音が鳴りだすと、隣同士顔を伺いながらやおら踊り始めた。舞台へにじり寄り先頭の少女を捉える。少女はあどけない様子で懸命に鉦に合わせて手足を動かしている。鳴りが徐々にテンポを速めても、一心不乱に追い縋(すが)った。そして鉦の速度は大気圏突入の苛烈さに達し、周りの子供らが置きざりにされて立ち尽くす中で、夏女はミツバチの羽ばたくように踊り狂い、途中から手足の順番があべこべになっても構わず、ついに振り落とされて床に転がると画面から消えた。

 すると映像は途切れ、画面には水の波紋が映っている。さっと舞い降りた花びらのような軽いものが水面に浮かぶと、水中に溜まった闇がせり上がって波紋ごとそれを吞み込んでしまった。ぬめぬめと鈍色に蠢(うごめ)くのは鯉だ。色とりどりの麩(ふ)に渦巻いてS字形に曲がった背びれをチラチラと覗かせている。嫌あ、きもい、冷や、と嬌声の上がる中に一人だけ笑いこけている声がある。夏女は川の瀬に腰を降ろすと鯉の群がる水の中へ躊躇(ちゅうちょ)なく右手を差し入れた。手には大量の麩を握っていた。ばちばちと水を打って鯉の群れが一層騒めき立った。尾びれが夏女の腕を代わる代わる叩いたが、夏女は一向に腕を引っ込めない。戸惑いや悲鳴や絶句が聞こえ、夏女を取り巻く空気が凝固するのが分かった。

 「あはは、痒(かゆ)いかゆい」

 腕が突っ張るように力んで見えたので、皆一度は彼女が強がってそれをしているらしいと決め込んでみたが、心底から沸き上がる笑い声は恍惚としていた。誰かがアッと声を漏らし、血が滲んでいるのを指摘した。油のような虹色に光った帯が水中に漂っている。尾びれで腕が切れたのだ。いや、麩ごと指を食われたのだと騒然とする中で、夏女は笑いこけて痒いとしか訴えない。その間も鯉は夏女の腕に絡みつき、黄色くぶよぶよとした口を互いの腹の上に重ね合っていた。秋男はたまらず彼女の腕を引き上げた。蝋人形の腕は青白く、一条の血液が螺旋(らせん)を描いて肌を伝っていく。掌は燃えるように末端に向かうにつれ濃い紫色に皺ばみ、茶色く干からびた手首から今にもぽつりと落下しそうである。鬼たちは大切そうに腕を一本ずつ持って大釜の周縁にしゃがんでいる。掌が燃え尽きて自然に落下する瞬間を見守るのだ。誰の掌が最後まで残っていられるだろうかと競う楽しみがあった。

 夏女には彼らが持っている腕の重量が分かる。

 ハローピエロに入るなり夏女は眠ってしまった。マジックで使う白いハンカチがつつに引き込まれるような鮮やかな眠りであった。起きてから、頭の下敷きにして寝た方の腕が無感覚になっているのに気が付いた。反対の手でその無感覚の腕を持ち上げると、だらりと垂れた肉塊にまだほんのりと体温が残っていた。体の一部であることを忘れた腕は、他人の荷物のように重たかった。

 大釜の内にはポビドンヨード液が淀んだ黒色をして満ちていた。そこここで泡が噴き上がっており、表面に漂う灰汁(あく)が天気図の台風のように渦巻きながら噴出口に吸い寄せられては散り散りになっている。液体の中には切断した腕の燃え残った芯が投げ捨てられ、表面に浮かんでいるものはポビドンヨード液の色で黄ばんで見え、深く深く沈むにつれて赤みを帯びて橙(だいだい)色、そして残った火種が一瞬バラのように発火して暗がりに飲み込まれるようにつと消滅する。夏女はその最後の発火する一瞬が見たくて、足元に転がっていた知らない腕の先に火を灯し、掌が燃え尽き落ちたのを見送ると、芯の部分をぽいと釜の中へ放り込んだ。

 秋男は燃えたぎる薪の前で汗を垂らし、熱気に曇った視力で絶壁のようにそそり立つ青い大釜の肌を見上げていた。あの縁に立つことを思うだけで目眩がしてくる。けれど、どこから登るのだ。階段や何かそういうものはあるのだろうか?

あらすじ 主人公の秋男が、恋人の夏女(なつめ)の故郷徳島へ一緒に帰郷し、夏女の思い出の場所を巡りながら幻想と幻覚を体験する物語。秋男は徳島を巡る途中で疲弊し、道端で地獄を目撃する。夏女と眉山にあるホテルに入った秋男は、そこで夏女が持っていたホームビデオを見る。映像の中で鬼と火遊びする夏女。秋男は夏女のところへ、どうにかたどり着こうとするが...。

小川真我(東京都)

 おがわ・しんが 1997年埼玉県生まれ。上智大外国語学部卒。在学中、演劇サークルに所属し、役者として舞台に立ちながら、脚本も積極的に書いた。卒業後は手仕事に魅力を感じてパティシエを目指したが、時間に拘束されない自由な生活に憧れるようになり、派遣社員に。2022年から小説を書き始めた。植物の観察と写真撮影、映画鑑賞が趣味。東京都新宿区在住。25歳。

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