おはようございまーすと言いながら、詰所手前と奥にいる目が合いそうな看護師さんにそれぞれ軽く会釈する。

 「佐藤先生? ほれやったら写真でも一緒に撮ってもらったらよかったのに。チャンスは昨日の夜しかなかったんちゃうん」
 「妻子持ちやろ。佐藤先生」
 「そうなんですけど」

 挨拶を返してくれる看護師さんはおらず、詰所入口のキーハンガーから控室の鍵を静かに取った。十畳ほどの詰所には五台ほどモニターがあり、三台が病室を映している。詰所の外に置かれたホワイトボードだけがアナログな伝達手段のように思える。その三六〇号室の欄に退院予定十時が赤で書かれていた。病棟の十七床に対して三名分名前が黒で書かれている。他は病室番号と枠線のみでどこも空白だ。三六〇と暗記したそばからその欄のワクチンの接種回数や入院日、年齢、名前は忘れた。

うっかりさんの「湿り」に登場する徳島駅前のヤシの木

 ドアにはA4のコピー用紙に控室とゴシック体で大きく書かれた張り紙がしてあるが、そのテープの端が粘着力を失い巻き上がっていて、引戸を開けると戸袋の中で擦れて乾いた音を立てた。控室は病室としていつでも機能するようベッドとテレビ付きの床頭台(しょうとうだい)が置かれたままだが、ベッドの上の薄いピンク色をした布団はいつから置いてあるのだろうか。少なくとも勤務し始めた二年前にはあった。その布団にリュックを下ろし、床頭台に置かれたメモの存在にうんざりしながらテレビを点ける。遠国の戦争状況を聞きながら、生乾きの黄緑色のポロシャツに首を突っ込み、匂いを嗅ぎながら顔を出すと、テレビに「梅雨入り」の文字が見えた。スマホのメモアプリを立ち上げて二〇二二年六月(俳句)のページを数十行スクロールし「戦争が戦争になる梅雨の朝」と打ち込んで顔を上げる。テレビ画面左上の時刻によると始業まで二十分ある。リュックから季寄せを取り出し、窓際に寄せたパイプ椅子に座った。「戦争が戦争になる溽暑(じょくしょ)かな」窓の左半分には樹の幹が見えるほど近くに山があり、右半分には小松島の低い街並みがあるはずだが、窓全体が白く曇ってはっきりとは見えない。雨はサ行の音をさせながら、雫がサッシに落ちるときには少し鈍い音もさせている。その様子をしばらく眺めていたが、アナウンサーがまた明日と元気よく挨拶するのが聞こえた。とっさに「戦争が戦争になる梅雨の音」と打ち込んでリュックにスマホを仕舞った。

 詰所の着衣場で青ラインの入った防護服とフェイスシールド、N95とシューズカバーをそれぞれダンボールから取り出していると、Lサイズのゴム手袋の箱の底が見えていた。ため息をついて詰所のキーハンガー前まで行くと、門野さんが清掃カートを押して廊下をこちらに来ていた。首だけで会釈しておはようございますーと言うとマスクを下にずらして、白目にへの口をしたいつもの変顔を見せつけてきた。マスク越しでも分かるように目を細めてふふっと言っておく。

 「やっぱり今月いっぱいで終い?」

 変顔などしていなかったようにいつも世間話へ移行する。

 「契約更新の話はないですからね。コロナ特需も終わりかもしれません」
 「来月から仕事の当てはあるん? おれの前の職場が正社員の求人出しとってな。精神患者の入院病棟なんやけど、楽でよ。基本看護師のゆうこと聞いとったらええわ。薬を間違えて配ると始末書とか書かされるけどな。そんなん何枚書いても給料減らんのよ。どうで」
 「正社員はちょっと。バイトぐらいがちょうどいいです。他に本業あるんで」
 「ほうなん。いくつか収入あるんやったらしよいな。ここだけでも結構もらえるだろ。レッドゾーン担当やもんな。時給やおれたちの倍ではきかんて聞いたでよ」
 「倍ってことはないです。そういうの誰から聞くんですか。噂とか真に受けると損しますよ。ちょっと準備あるんで失礼しますね」

 門野さんは片手を軽く上げて頷き、また変顔をして見せてきた。ふふっと言いながら会釈に近い頷きを返す。

 倉庫に入るとメモ帳とペンをポケットから取り出した。「変顔を隠し切れないマスクかな」大きく×を書いてポケットに仕舞う。また、ため息をつく。掛布団、シーツ、枕、枕カバーを棚から机に下ろす。シーツは何回も使ってきたせいか、端がほつれていたりする。枕カバーも同様だ。レッドゾーンに持ち込んだものは基本廃棄処分だ。そういう使い古したのをあえて持ってきているのかもしれない。「病棟の端がほつれている布団」ぼーっと考えているといつの間にか枕は枕カバーに入れ終わっており、掛け布団・シーツ・枕の順に上へ重ねられていた。布団セットを片手で抱えて電気を消そうとすると門野さんがダスターを持って入ってきた。お互いびっくりして少し仰(の)け反(ぞ)った。「お」と声を出して目を大きくしている門野さんが変顔をしているのか普段の顔なのか判断できず、愛想笑いは控えた。

 「おったんじゃ」
 「昼からの退院清掃の準備をしておこうと思いまして」
 「ここな、あんまり人来んからサボるんに使われとるみたいでな。山崎さんがなんかそんなこと言うとったわ。きぃつけよ」
 「誰がサボってるんでしょうね。どういうことか分からないですけど、長居はしないようにします」
 「それがええ」

 変顔を期待している自分がいるが、門野さんは俯(うつむ)いて倉庫の床をダスターで拭き始めた。わたしは仕方なく布団セットを左腕で抱え直し、右手でドアを開ける。そういえば、床頭台のメモをまだ読んでいなかった。もしかしたら申し送りかもしれない。イエローゾーンまで行くと予備のメディカルペールの上に布団セットを置いて控室に戻った。床頭台に文庫本サイズのメモ用紙が少しずらして二枚重ねて置かれ、綺麗な文字でほとんど余白なく書かれている。

 「前回二部屋、三五五か三六一だったか忘れましたが洗面台が四か所ひどい汚れでした。トイレ内に関しては黒カビのようになっていました。ホコリもすごかったので三五五は当日に入院があったのですぐに清掃し直し、三六一もラミネート以外の捨てなければならない書類もそのままあったので捨てました。ゴミ袋は在庫にもレッドゾーンにも無く朝イチなのに足りずに困りました。みんなフォローしています。山崎さんからも、やっているのではなく出来ていなければやっていることにならないと言われましたが、それは同感です。私たちは高い給料で雇われているし、普段から鏡ひとつでも拭き跡が残らないように手を抜かずにわたしはやっています。空室清掃とかで他の病室と見比べたら分かると思います。この際に仕方なく伝えています。ずっとフォローした上で言っているというのは分かってください。」

 もう一度読んでパイプ椅子に座った。強めの風が何度か吹いて雨音が波の音に聞こえた。メモ帳とペンをポケットから取り出し、また窓を見る。「雨音に波音の重なる網戸」海が近いとしても聞き間違いだろう。窓をよく見るとひどく汚れていた。指でなぞると水滴と黒い汚れがついた。新鮮な埃は白い気がする。この埃は古いのかもしれない。外が急に光り、窓に「ころす」と白く浮かび上がった。すぐに見えなくなったが、斜めから見ようとしていると数秒後に雷の音が聞こえた。リュックから除菌シートを取り出し、大きく手を振るようにして吹きあげた。除菌シートを三枚黒くしたが、それでも窓の外側は拭けないため汚れているように見える。雨は何日目だっただろうか。

 患者がいる病室の前にそれぞれ食べ終わった弁当が置いてある。ビニール袋に入れてあるが、持ち上げるとコンビニ弁当を温めた時の匂いがする。N95を付けていても、きつい。ゴミ袋にまとめ、メディカルペールに放り込む。すぐに手をアルコール消毒すると二重に履いたゴム手袋越しにもその冷たさが感じられる。防護服はサウナスーツのようなもので、ちょっと動くだけで汗が噴き出る。レッドゾーンの清掃で一番しんどいのは掃除ではなく、メディカルペールのパッキングだ。多い日は三十箱ほど出る。それを一つ一つしっかり閉じられているか確認しながら除菌シートで全面を清拭(せいしき)し、閉じ口を幅広のセロハンテープでぐるりと留め、九十リットルの袋に入れて口を縛る。メディカルペールは中身が防護服だけなら軽いのだが、透析患者がいるとメディカルペールが何らかの液体でいっぱいになっていて、かなり重たい。弁当の食べ残しが多い日なども重たい。それをレッドゾーンからイエローゾーンに運ぶとまた九十リットルの袋に入れる。三十箱だと、これに二時間はかかるが、この間何も考えられない。ただ、ぼーっとしていても仕事は進めることができる。廊下の手すりやドアノブの清拭、床にはダスターのドライとウェットをそれぞれ一回ずつかけてしまえば午前は終わる。レッドゾーンの清掃は一人で行うため防護服姿の同僚と会うことがない。前任者が辞めた理由は聞いていないが、今ならなんとなく分かる。時計はまだ正午を示していなかったが、レッドゾーンを出ることにした。

 詰所横のホワイトボード前に立つと同じ名字が二人分増えており、空白が少し減っていた。一七歳と四十四歳。ワクチン接種回数は三回。陽性確認日は六月八日。入院日は六月十日。広めに取られている備考の欄は空白だった。そこにマジックの消し跡がある。じっと見ていると「院内クラスター関連」と読める。消すならしっかり消した方がいいだろう。ホワイトボード消しを取って丹念に擦っていると、問題ないですかーと右後ろから言われた。首だけで振り向く。

 「ああ。山崎さん。ホワイトボードの掃除してました。六月になってから患者さん一気に減りましたね」
 「ホワイトボードに、我々、清掃が、触れるのは、やめておきましょ。余計な誤解を招くかもしれんからね」

 ホワイトボード消しを強く握って、置いた。

 「大事なところ消しちゃったら大変ですもんね。すみません」

 二度頷いてから今度は詰所に問題ないですかーと聞いている。あの人指示した順番で掃除してくれないんですけどと看護師さんが横目でこちらに言ったのを聞こえないふりをして控室に向かった。

 控室の洗面台上の棚を開けて、割り箸を一つ取った。誰が置いたのか分からない醤油の小さなボトルもある。そもそも割り箸も私の物ではない。その棚には白と黒のA4のファイルも置かれている。今まで開いたことはなかったが、白いファイルを覗くように開いてみると、メモが一枚ずつクリアファイルに入れられている。どのメモにも記名はない。どれも見覚えがあり、私宛であることは間違いない。私がゴミ箱に捨てたものでもファイリングしてある。割り箸を握り直して、閉じた。

 テレビを点けてリュックをパイプ椅子の隣に置いた。

 「大阪でも大雨暴風警報が発令されたようですね。徳島駅前から中継が繋がっております。佐々木さーん。はい。こちら徳島駅前の佐々木です。見てください。駅前のヤシの木が折れてしまっています。今朝と比べると幾分風も強くなってきていまして、このように駅を一歩外に出ると、折れた傘が散乱しており、強風で折れたヤシの木の破片も飛んで来かねない危険な状況です。佐々木さん。このような状況でも募金活動は続けられているのでしょうか。はい。もちろんです。徳島駅の外から場所を移しまして、このように改札口前で今も児童らによる必死の募金活動が行われています」

 リュックからスマホと弁当を取り出しながらパイプ椅子に座ると、テレビを消した。「梅雨湿り募金活動する子供」メモアプリに打ち込んだが、消した。スマホを床頭台に置くとその隣に今朝読み忘れた二枚目のメモがあった。「あと、ゴム手袋の補充ができていませんでした。備品の補充は気が付いたときにしてください。控室の電……」最後まで読まずにメモを握りつぶした。ゆっくり手を開くと強く握り過ぎたのか手のひらが白かった。紙くずを落とし、手のひら全体を使って白く曇った窓に大きく字を書き始めた。二文字書いたところで水滴が腕を伝って腋(わき)まで達し、くすぐったくて手を引っ込めた。右腋を左手で拭うとそれを窓に押し付けるようにして歪な「す」を書いた。焦点を窓から外に移すと、道向かいを横切っていく黄色い合羽(かっぱ)を着た列の一人がこちらを見ていた。

あらすじ 雷鳴とどろく大荒れの雨模様の中、清掃員たちが防護服を着込んで受け持ちのコロナ病棟の清掃作業に当たる様子を淡々と描いた。作業員が抱える悩み、同僚の仕事への不満など複雑な人間関係の難しさを丁寧に追う。

うっかり(徳島市)

 うっかり 1982年小松島市生まれ。本名原田英一(はらだ・えいいち)。小松島高を中退後、2006年高知工科大知能機械システム工学科卒。10年まで4年間、ボイラー関連機器メーカーで研究開発に携わった。退社後、俳句を学び、18年全国俳誌協会の第2回新人賞準賞、19年第17回とくしま文学賞の優秀賞。俳句結社「ひまわり」会員。徳島文学協会会員。徳島市西須賀町東開在住。39歳。

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