福島商との1回戦で先制本塁打を放ち、打球の行方を追う阿竹さん(左から2人目)=2000年8月8日、甲子園球場

競輪のトレーニングを積む阿竹さん=徳島市大原町の日峯大神子広域公園

 4年連続の出場となった徳島商は、1回戦で福島商を10―2で下した。2回戦は仙台育英(宮城)に11―6で打ち勝ったが、3回戦で長崎日大に2―6で敗れた。大会は、全6試合で100安打、11本塁打を放った智弁和歌山が制した。

 ライナー性の当たりが左翼スタンドのポール際に吸い込まれると、甲子園球場を埋め尽くした観客が沸いた。2000年夏、徳島商業高校の主砲として活躍した阿竹智史さん(36)=徳島市北田宮2=は、福島商業との1回戦、三回2死一、二塁の場面で放った大会第2号となる先制本塁打が忘れられない。

 「一度は打ちたかった甲子園でのホームランはうれしい。せっかくなので、ホームまでゆっくり走って余韻を味わえばよかった」と笑う。

 大会での実績などが買われ、高校卒業後は京都の大学への進学が決まった。しかし、入学前の大学野球部の練習に参加した後、「野球を続けていこうとは思えないようになった」。明確な理由はなかった。反対する両親らを説得して進学を取りやめ、野球人生にきっぱりと別れを告げた。野球は生活の一部だったが、未練はなかった。

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 大学進学に向けてトレーニングをしていた徳島市のジムには通い続けた。そこで競輪選手と出会い、競技の魅力にはまった。

 ジムには何人もの競輪選手が通っていた。トレーナーに勧められ、高校の先輩でもある小倉竜二選手から競輪の話を聞いた。自転車は移動手段として乗る程度でルールさえ知らなかったが、「レースの成績が収入に直結する世界。不安はあったが、やりたい気持ちがはやった」。決断に時間はかからなかった。

 競輪選手への道のりは平たんではなかった。当時、選手を養成する日本競輪学校(静岡県伊豆市)には、70人程度の定員に対して約550人の応募があった。狭き門を突破しようと、早朝は人けがない路上、午後には小松島競輪場のバンクを自転車で走り込んだ。夜はウエートトレーニングを積む生活を続けた。2年連続で不合格となり、「これで駄目なら辞める」と決意した3回目の試験でようやく合格した。

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 1年間の学校生活を終え、05年の同競輪場でのデビュー戦で初勝利。3カ月後には初優勝した。09年からトップクラスの「S級1班」に所属し、年間約80レースに出ている。

 時速70キロでの戦いでは負傷が絶えず、これまでに鎖骨や肋骨を折った。今年1月にはレース中に転倒し、左手中指の靱帯を断裂。全治3、4カ月の診断を受けてハンドルを握れない状態だったが、手術翌日から自転車に乗り、1カ月後にはレースに復帰した。

 「野球がなければ今の自分はなかった」と言い切る。甲子園に出場しただけで満足していた高校時代の反省を忘れず、競輪では「日本一を狙う」との強い意志を持ち続けている。

〈大会メモ〉 2000年夏
 4年連続の出場となった徳島商は、1回戦で福島商を10―2で下した。2回戦は仙台育英(宮城)に11―6で打ち勝ったが、3回戦で長崎日大に2―6で敗れた。大会は、全6試合で100安打、11本塁打を放った智弁和歌山が制した。