熊本県天草諸島の北西部、天草灘へ、ちょんと突き出した半島にある児童67人の苓北(れいほく)町立富岡小学校で、5年生の人権学習を参観させてもらった。講師は、水俣病患者支援施設「ほっとはうす」(水俣市)の4人
水俣病が公式に確認されたのは1956年。その時点でチッソ工場のメチル水銀を含んだ排水が止まっていたら、病気にならなかったはず。けれども日本は経済成長を選んだ。ひどい差別と悔しい思い。50代の胎児性患者らが、来し方を振り返る
ある患者の願いは、もう一度歩けるようになること。そして仲間の車いすを押してあげたい、と。人は苦しんだ分、人に優しくなれるもの。人って何が大事か伝えたい
講演の終わりに、児童の代表が随分きちんとしたお礼のあいさつをした。「人間を守ることの大切さを改めて学びました」。本当かな、といじわるな質問がしたくなった
あれこれ答えてくれたのは仁田心人(あいと)君と福島湊人君。「つらい人がいたら助けたい」。確かに。「しゃべり方は、あまり変わらないんだ」と河本遥さん。症状にも軽重がある。そんな点にも気が付くよね。直接会って話をしたのは等身大の患者さん
社会のひずみを引き受けさせられた水俣病。「命よりも生活の世の中だったんだ」。何度教科書を読んでも一度の体験学習にかなわない場合がある。