亡くなった米兵を悼んで、島孝雄さんが建てた供養碑=松茂町豊岡
大森さん㊨から報告を受ける島泰洋さん=徳島市庄町2

 太平洋戦争末期に徳島海軍航空基地(松茂町)近くで撃墜され、同町豊岡に供養碑が建つ米兵の身元が、戦後73年を経て分かった。「徳島白菊特攻隊を語り継ぐ会」会員の大森順治さん(70)=吉野川市川島町川島=が昨年、在日米大使館に調査を依頼し、米側資料で確認された。碑は1985年、元憲兵で撃墜現場での事後処理に関わった島孝雄さん(88年死去)が建立していた。

 米側資料によると、米兵はイリノイ州出身のクリフォード・レスリー・バウソール少尉。45年7月24日、空母ハンコックから戦闘機に単独搭乗し、徳島海軍航空基地を攻撃中、対空砲火で撃墜された。遺骨は戦後、米軍が持ち帰った。

 航空・軍事専門の翻訳家菅原完さん(89)=東京都=が、米大使館に調査委託された米国防総省捕虜・行方不明者調査局と協力し、確認した。

 墜落現場近くに建つ碑には「米空軍ポートシコルスキー機搭乗員P38戦没塚 昭和二十年八月十日没」とあるが、この日付も含めて全て戦争当時の町民らの記憶に基づくもの。ヴォート・シコルスキー社(当時)は海軍で使用する飛行艇を製造し、陸軍機のP38は製造していないため、石碑の記述には明らかな誤りもあった。

 菅原さんらはこうした疑問点も含め、米国の戦死者個人記録ファイルや、GHQ(連合国軍総司令部)の調査に基づく日本側資料を照合。その結果、米側資料では▽7月24日の呉軍港襲撃の際に迎撃を阻止しようと、バウソール少尉の所属部隊が中四国の飛行場を攻撃▽搭乗機に描かれた模様や翼の形が日本側証言と一致−などとして、身元をバウソール少尉と特定していた。

 島さんの次男泰洋さん(69)=徳島市庄町2、インテリア店経営=によると、島さんは撃墜後に現場に赴き、書類作成を担当。遺体は、住民らに踏まれたり蹴られたりしていたという。島さんは生前、「敵であっても尊い命が失われることに変わりはない。戦争は絶対にしてはならない」と繰り返し語っていた。泰洋さんは「父はずっと気掛かりにしていた。米兵の身元が分かり、喜んでいるはず」と話した。

 資料の保全大事 県立文書館の徳野隆館長

 国内に残された戦時中の資料は乏しく、米国などの資料で新事実が判明することがあり、資料を残す大切さを実感する。