剣山からこんにちは! というのは大げさで、11月下旬に剣山のほとんどの施設は閉まってしまいました。山の麓から失礼します。

 新居拓也です。徳島県の最高峰にして西日本第2の高峰・剣山の頂上近くにある「剣山頂上ヒュッテ」で仕事をしています。

 徳島新聞デジタル版のコラムを担当される他の皆さんと比べ、私の知名度はないに等しいと思います。有名なのは、山小屋の2代目で私の祖父の新居綱男でしょう。祖父は元気です。現在、山小屋の事業は父親の智次が引き継いでおり、私も手伝っている身分です。

 私は山小屋での仕事とは別に、県西部で唯一のクラフトビール醸造所「Paddle Brew(パドルブリュー)」を経営していたり、北米を流れるユーコン川をカヌーで下ることがかつてのライフワークだったり。「いろんなことをやってみたい」というタイプなのです。「剣山からの定期便」とのタイトルですが、「自由に書いていいよ」とのことなので、徳島の自然を中心にいろいろな話題に触れていきたいと考えています。

 ここで私の経歴を少し紹介します。

 美馬郡木屋平村(現美馬市木屋平)出身。剣山には記憶がない頃から登り始めました。母いわく「歩けるようになってからは、時間がかかっても自分の足で登らせていた」ということなので、3歳くらいでしょうか。よく「子連れで剣山に登山できますか」と聞かれますが、十分な準備と余裕を持った行動計画があれば大丈夫です。

 木屋平村は当時、県内最小レベルの自治体で、中学の同級生はたった11人でした。中学は公立なのに全寮制。男子の部活は卓球部一択。帰宅部は認められていなかったので、すなわち強制的に卓球部。そんな抑圧された生活による「どこか遠くに行きたい」という反動から、高校時代の2年間はニュージーランドの高校に通いました。

 中学時代には転機がもう一つ。「川の学校」というキャンプに参加し、作家でカヌーイストの野田知佑さん、吉野川第十堰(ぜき)の可動堰化計画を巡る住民投票運動のリーダーだった姫野雅義さん(いずれも故人)と交流するようになったことでした。野田さんとの思い出に関しては、3月に逝去された際、徳島新聞に追悼文を書かせていただきました。デジタル版で読めますのでここでは割愛しますが、「京都の大学はいいぞ」という野田さんの言葉を根拠なく信じ、京都の大学に進学しました。

 大学卒業後は徳島新聞社に就職。そういえばデジタル版のコラムを執筆されているリーゼント刑事の秋山博康さんは、社会部の司法警察担当だった新人の頃に何度かお見かけしたことがあります。

 社会部、那賀支局、政経部と渡り歩きましたが、関心分野だった環境問題などを取材する機会も多く、恵まれた記者生活だったと思います。この連載に声をかけていただいたのは数年間机を並べていた先輩です。

 30歳手前で退職。記者としてそこそこの仕事はできていたとは思うのですが、ヒュッテの将来が気になったのと、自分の「いろんなことをやってみたい」という衝動が抑え切れませんでした。