流ちょうにしゃべることを「立て板に水」って言いますわな。元は知りまへんけど、今は揶揄(やゆ)するニュアンスで使われることが多い言葉ですわ。どうでもええことをペラペラとしゃべる、ちゅう感じですかな。
飯泉知事はんのしゃべりについて「立てガラスに水」っちゅうて評した県議はんがおりました。板よりも表面がつるつるしとるから、とにかく流ちょうなっちゅうことでしょうな。その県議はん、こんなふうに言うてましたわ。「聞いても後に何も残らん」。そらそうじゃ、ガラスの上を流れる水ですけん。
そんなことを思い出したんは、20日の飯泉知事はんの定例記者会見をインターネットで見よった時じゃ。みんな知りたいんは、知事選に出るかどうかですわ。それやのに、なんやらコロナがどうのとか経済がどうとかペラペラとしゃべって、肝心の自分のことは相も変わらず言おうとしまへん。
「出馬要請」させて「ほんなら」っちゅうて表明するんは得意の手法とちゃいますか? 少なくとも万代町周辺の鋭い人ならたいがいそう思うてます。今回もそれが始まったみたいやし、徳島新聞にも「地ならし」っちゅうて書かれてましたわな。
でも、よう聞くと興味深いことも言うてましたな。「『地盤、看板、かばん』が自分にはない」とか「国会議員なら政治活動のために公費が使えるが、知事にはない」とか。これ、知事選に出る元国会議員はんは恵まれとるっちゅうことを言いたいんで? 新ホールのことを言よったんも、「新ホール中止」って言よる元国会議員はんに対抗しとるんでっしゃろか。
「語るに落ちる」とまでは言いまへんけど、知事選意識してるんがありありやと思いましたわ。
ガラスの上でも、人が大事やと思うた言葉だけは流れずに残るもんですわ。知事はん、前には発達障害を揶揄したって問題になったこともありましたわな。気ぃつけなはれよ。(紙津久造)