人気脚本家で、エッセーの名手としても知られた向田邦子さんは1981年夏に徳島を訪れ、本場の阿波踊りを体験している。エッセー集「女の人差し指」(文春文庫)に所収の「大 学芸運動会」は、このときの印象をつづった一編だ。初出は8月14日付の徳島新聞。
向田さんはこの夏、徳島新聞社の招きで来県し、四国霊場札所の一番霊山寺(鳴門市)から五番地蔵寺(板野町)まで巡り、お遍路も体験している。
有名連「新のんき連」に加わり、徳島市内の紺屋町演舞場へと繰り出したのは12日夜のこと。〈故郷を持たない人間にとって、郷土芸能ぐらい妬ましいものはない。根なし草を思い知らされるようで、冷たい視線でそっぽを向き、見ないで暮していた。/ところが、ひょんなことから阿波踊りの仲間に入れていただけることになった〉と書き出している。
ちなみにエッセーの題名は、出番を待つ踊り子たちの上気した様子を〈運動会と学芸会が団体で押し寄せたような気分〉と表現しているところから取られたようだ。
そして〈きまりの悪さは一瞬のことだった。不思議な酔いが廻って、原稿の締切りのことも税金も、みんなどこかへ消しとんでしまった。踊りがこんなにいいものだとは知らなかった。この瞬間、私は、故郷のお裾分けにあずかっている、という実感があった…〉と印象記は続く。
この掌編がとりわけ印象深いのは、手だれの書き手による阿波踊り体験記であるとともに、向田さんが直後の8月22日、取材旅行中の台湾で航空機墜落事故に遭遇し、非業の死を遂げているからだ。享年51。「大 学芸運動会」は図らずも、向田さんの“絶筆”となってしまった。
向田さんは「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」といったテレビのホームドラマのシナリオを手掛け、一躍、人気脚本家に。亡くなる前年には短編小説「花の名前」ほか2編(いずれも新潮文庫「思い出トランプ」所収)で、直木賞を受賞。一層の活躍が期待される中での、早すぎる死だった。
その数々の著作は今も読み継がれており、1989年には高倉健さん主演の映画版「あ・うん」が製作され、徳島出身のタレント板東英二さんが準主役を務めている。
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向田邦子著「女の人差し指」は文春文庫、272ページ。「大 学芸運動会」を含む随想47編を収める。640円(税別)。