人体の細胞や組織を詳細に調べて、病因や病状を明らかにする病理医。臨床医が治療する上で方向性を示す羅針盤としての役割を担う。いわば「医者の医者」となり、約40年。「細胞を通して患者の姿が見える。天職なんでしょうかね」と笑う。
「当初は臨床医を目指していたが、流されるまま病理医になっていた」。長崎大医学部を卒業した後、大阪大付属病院で研修医に。新たな肺がん治療を研究するグループに属したが、グループ内で細胞について詳しく分かる人がいなかった。「じゃあ、私が勉強してきます」。病理医の門をたたいた。
顕微鏡の扱いに慣れるまで半年かかり、1年で戻るつもりだったが、その奥深さにはまった。34歳の時に米国・ジョージア医科大に留学。言葉や文化の壁を乗り越えながら最先端の病理学を習得した。帰国後、阪大病院から堺市内の大阪労災病院に移った後も病理医一筋に勤めた。
「何度も病院に足を運ぶのは面倒だし、手術で体の機能が失われるのはつらい。自分が病気になったらどう感じるかを常に考えている」。病理医は患者と直接向き合うわけではない。それでも、検査の迅速化や機能温存を念頭に置いた治療方針など、患者に寄り添う医療を常に心掛けてきた。
旧宍喰町生まれ。高校2年の時に大病を患い、好きだった野球を諦めた。学業に自信はなかったが、父から強く勧められて、苦労の末に医者になった。「同窓会とかに行くと、『お前が医者か』と冷やかされるんですよ」
豪雨被害や参院選合区など徳島の話題が何かにつけて気に掛かる。「明るい話題が少なくて、やきもきすることが多いですね。ふるさと納税制度などはもっと活用して、徳島をアピールしてほしい」。
かわの・きよし 海南高(現海部高)を経て長崎大医学部卒。大阪大医学部講師を務め1989年、大阪労災病院臨床病理科部長。同大医学部臨床教授、労災病院副院長など歴任。2011年から大阪府内の社会医療法人・生長会で病理細胞診センター長を務める。和泉市在住、68歳。