爆心地から約800メートルの防空壕(ごう)の奥にいた。「ぴかっと光った途端、爆風が入ってきて、壁にたたきつけられたのよ」。長崎市油木町の下平作江さん(83)が語る、その時

 長く気を失っていた。目覚めて慌てた。「じいちゃん、目の玉がぶら下がっとるよ」。「何ともなか。周りを見てみろ」。熱線に焼かれた人が大勢いた。多くは息をしていなかった。「助けて」と誰かが叫ぶ。国民学校5年生の夏

 朝から空襲警報が、発令されては解除されていた。壕を出て行く人も少なくなかったが、下平さん姉妹はとどまった。じっとしていろよ、と医大生の兄にきつく言われていたからだ。「妹と、『せからしかね(うるさいね)』と愚痴をこぼしてたんだけど」。それが幸いした

 国防婦人会の役員で、空襲に備えて家に残った母と姉は即死した。兄は爆心地に近い長崎医大で被爆。「しっかり勉強しろよ」。妹らと再会し程なく息を引き取った

 そんな体験を、長崎市の原爆資料館で聞いた。キノコ雲の映像を見詰めて、「あの下にいたのよね。熱線が降り注いだから、みんな黒焦げになって。原爆は死ぬ時でさえ、人間らしく死なせてくれないのよ」

 毎日、原爆が投下された午前11時2分に手を合わせる。「いまだに、どこで亡くなったか分からない人がいるからね」。きょう、長崎原爆の日。