毎年恒例になっている徳島市の阿波踊り公式ポスター。モデルになった踊り子の晴れやかな笑顔や、心躍るキャッチフレーズは、熱気と興奮に満ちた踊りシーズンの到来を告げてくれる。徳島城博物館によると、1922年から作られていたとみられ、今や徳島の夏を象徴する「一枚」といっても過言ではないだろう。ポスターのモデルを務めた歴代の踊り子は今何をしているのか。このうち2人を訪ね、当時の思い出と近況を聞いた。
1999年 福田友紀さん 育児で引退「頑張るみんなを応援」
1999年のポスターでモデルになったのが、かつて「まんじ連」の踊り子だった福田(旧姓・河野)友紀さん(44)=徳島市助任橋1、パート従業員=だ。25歳当時、女踊りの先頭で踊っている姿を正面から捉えた。「今見るとアップ過ぎて恥ずかしい。若かったから平気だったんでしょうね」と振り返る。
阿波踊りを始めたのは、中学2年生の頃に同級生に誘われたのがきっかけ。高校受験の時期や専門学校時代には連から遠のき、練習に行ったり行かなかったりだったと言い、「それでも受け入れてくれたから、続けられたのかもしれません」と話す。
再び本格的に練習に取り組んだのは社会人になってから。女踊りのリーダーを任され、同年代の仲間に支えられてやり遂げた。当時のメンバーとは今でも年に一度は集まる関係で、「部活動みたいで楽しかった。遠征で新潟や沖縄とか県外のいろんな場所にも行けて、青春って感じでした」と懐かしむ。
2000年、「娯茶平」の踊り手だった雅之さん(45)と結婚。「よその連に嫁に行くなって当時の連長に怒られた」と笑う。翌年に妊娠し、出産と育児のために参加できなくなり、以降一度も踊っていない。雅之さんも後に連から退いた。
現在は、陸上競技に熱中している高校2年生の一人息子の応援やサポートを楽しんでいる。「阿波踊りからは完全に退いているけど、夏に懸ける踊り手の気持ちは今でもよく分かる。みんなが頑張って踊っているのを応援したい」と本番を心待ちにしている。
2012年 若木まりこさん 出産後復帰「いつか子どもと」
2012年のポスターは、若木まりこさん(38)=勝浦町沼江、主婦=がモデルだった。11年の夏に「ゑびす連」の花形「女法被踊り」の一員として輪踊りをしていた時の1枚が採用された。「私にとって法被最後の年だったので、区切りの集大成として踊っていた。その意気込みが伝わったんかな」と当時を思い起こす。
阿波踊りとの出合いは小学6年生。友人に誘われるまま、地元のゑびす連の練習に何げなく参加した。「色気がありながら粋で格好いい」という女法被踊りに憧れ、女踊りでの8年間を経て志願した。
女法被踊りでは毎年違う構成を披露しており、「踊りの構成や練習の仕方も自分たちで考えて、夜遅くまで新しい動きや見せ方を話し合った」と言う。同年代の仲間と作り上げていった日々は今もいい思い出だ。
10年に結婚し、ポスターになった翌年、出産のため連を離れ、今では2児の母。育児も落ち着き、昨年春の「はな・はる・フェスタ」の舞台で約5年ぶりに復帰した。
現在、阿波おどり会館(徳島市)で専属連の踊り子として公演を重ね、ゑびす連では男性陣に交じって着流しの男踊りに励む。法被との違いに難しさを感じつつも「もっとうまくなりたい」と新たな挑戦に燃えている。
4歳の長女は阿波踊りに興味津々で、「たまに練習に連れて行くと、見よう見まねで踊り、連で早く踊りたいと言っている」と喜ぶ。2歳の長男もその影響で踊り出し、「いつかは子どもたちと一緒に踊れれば」とほほ笑んだ。