
政治は難しいと思っている人もいるかもしれません。言葉、人物、数字…。徳島の政治を読み解くキーワードを説明します。
あ
1974年から81年にかけて徳島県内の保守勢力が分裂し、激しい戦いとなった国政選挙や県知事選を総称する。74年の参院選徳島選挙区は、田中角栄首相が推す新人で元警察庁長官の後藤田正晴氏が自民党公認となり、現職でありながら非公認となった久次米健太郎氏と争った。徳島県出身で三木派の領袖だった三木武夫氏は久次米氏を支援し、「三角代理戦争」と言われた。この年、金脈問題で田中首相は退陣し、三木氏が首相に就く。77年の知事選では、三木派で現職の武市恭信氏と、後藤田派で新人の三木申三氏が対決し、武市氏が4選を果たす。得票差はわずか1539票だった。81年の知事選は両氏が再び争い、三木氏が雪辱した。以来、徳島県内で保守分裂選挙が行われると、激戦ぶりを伝える言葉として「阿波戦争」が使われる。
選挙区ごとに当選に必要な票数が異なるため、1票の価値に格差が生じ、法の下の平等を定めた憲法に違反するなどとして、選挙無効を求める訴訟が繰り返されている。最高裁は、衆院選での「1票の格差」が2倍超となった2009年、12年、14年の選挙を違憲状態と判断した。17年衆院選は、区割りが改定されて最大格差は1・979倍となり、合憲とした。21年衆院選は最大2・08倍となり、弁護士グループが選挙のやり直しを求めて提訴している。20年の国勢調査を受けて、15都県の小選挙区定数を「10増10減」する見直しが進められている。
か
2003年の公職選挙法改正で取り入れられた。低下し続ける投票率を上げるための対策として、仕事やレジャー、冠婚葬祭などの理由で投票日に投票できない人を対象に、投票日前日まで受け付ける。利用者は増え、2021年衆院選では、徳島県内の期日前投票者数は11万5751人に上り、全投票者数の34・51%だった。
従来の選挙区が合わさること。有権者数の減少によって「1票の格差」が拡大し、2016年の参院選から、徳島県と高知県、鳥取県と島根県をそれぞれ統合し、「徳島・高知」と「鳥取・島根」の選挙区となった。都道府県をまたぐのは初めて。
同じ政党の2人が、選挙のたびに小選挙区と比例代表に交代で立候補する方法。名称は、憲法で国会議員の連続選出を禁じる中米のコスタリカに由来する。自民党は衆院選小選挙区比例代表並立制の導入時や他党にいた議員が合流した際、同じ選挙区での共倒れを防ぐ目的で活用してきた。党の都合で候補が入れ替わることへの批判も強い。徳島県内ではかつて、徳島1区で岡本芳郎氏と七条明氏の間で採用された。
1914~2005年。東山村(旧美郷村、現吉野川市)生まれ。東京帝大を卒業後、旧内務省に入省、警察庁長官を務めた。田中角栄内閣の官房副長官に抜てきされ、74年に参院選徳島選挙区から出馬し、落選した。76年、再起を期して衆院選徳島全県区に立候補し、連続7期当選。初当選から3年足らずで自治相として入閣、官房長官、法相、副総理などの要職をこなした。鋭い政治的判断力と情報収集力で「カミソリ」の異名を取り、高い見識と一徹な人間性が信頼を集めた。 政治改革推進派の代表格で、憲法改正論議では護憲派の姿勢を貫いた。引退後も「政界のご意見番」として内政・外交の幅広い問題について的確な発言を続けた。
さ
2019年参院選の徳島県の選挙区投票率で、全都道府県で最低だった。徳島・高知両県が一つの「徳島・高知」選挙区となり、2度目の合区選挙だった。事実上の一騎打ちとなった与野党の候補者2人がいずれも高知県を地盤としていたため、徳島県内の有権者の関心が高まらなかったとされる。
一つの選挙区で1人を選ぶのが小選挙区制。基本的に各政党から1人ずつしか出ないため、政党間の戦いの様相が強く、「政権選択選挙」とも呼ばれる。わずかの票差で当落が決まり、実際の投票総数の割合と、議席数の割合が大きく異なることから、「死に票」が多くなりやすい。このため、得票数に応じて議席が配分される比例代表を導入している。衆院選の投票用紙には、小選挙区は候補者名を、比例代表は政党名を記載する。
選挙後の複数の党による連立で政権が代わったケースはあったが、選挙で過半数の議席を得て政権が交代したのは2009年衆院選での民主党が初めて。次回の12年衆院選では、自民党が過半数を獲得し、選挙によって政権が再び交代した。政権交代可能な2大政党制を目指した小選挙区制が1996年の衆院選で導入されて以降、政権交代が実現したのは2度。12年衆院選以降は、自民党の一強時代が続いている。
地方議会の活性化と議員の調査活動の基盤強化を図る目的で支給される資金。「政務調査費」として導入され、2012年の地方自治法の改正で名称が変わり、国への陳情など「その他の活動」に広く使えるようになった。支給額や使途の範囲は各自治体が条例で定める。当初はチェックの仕組みが十分でなく、住民監査請求や訴訟が相次ぎ、不正使用が問題となった。徳島県内では県議会と7市議会で支給されている。県議会は1人当たり毎月20万円(年間240万円)で、年4回に分けて会派ごとに交付する。使用しなかった分は返還する。
衆院選では小選挙区と比例代表ともに立候補でき、小選挙区で敗れた場合に、当選した候補の得票数に対する自らの得票数の割合を指す。比例代表の名簿順位が同じなら惜敗率が高い順に復活当選する。2021年衆院選で、徳島1区で落選しながら比例四国ブロックで復活当選した日本維新の会の吉田知代氏の惜敗率は20・17%で、全国の比例復活当選者の中では最も低かった。
与党が、衆院にある全常任委員会の委員長ポストを独占した上、委員数が過半数となる数。法案などは、まず委員会で審議されるため、全委員会で過半数を占めると、安定的に可決される。委員長ポストを独占した上で、委員数が半数の場合は、委員長裁決で可決され、安定多数と呼ばれる。現在の衆院の絶対安定多数は261、安定多数は244となっている。
有権者の変動による「1票の格差」拡大に伴い、選挙区が見直される。衆院選では、小選挙区制が導入された徳島県内では、衆院選の選挙区は小選挙区制が導入された当初、3選挙区だった。その後、区域の変更などを経て2014年衆院選から2選挙区に削減された。参院選は、16年から徳島県と高知県の選挙区が統合され、「徳島・高知」選挙区となっている。
2015年に選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げる改正公選法が成立した。1945年に「25歳以上」から「20歳以上」に引き下げて以来、70年ぶりの改革。16年夏の参院選から適用された。17年衆院選の18歳と19歳の徳島県の小選挙区投票率は全国最低の31・59%だった。年齢別では18歳が41・61%、19歳が21・69%と、19歳の低さが目立った。
1946~2018年。徳島市出身。東大在学中に司法試験に合格し、弁護士。1990年の衆院選徳島全県区に社会党から出馬し、初当選した。93年の衆院選で落選した後、旧民主党結党に参加し、小選挙区制が導入された96年の衆院選で徳島1区から返り咲いた。党政調会長や憲法調査会長を歴任し、1区では5期連続当選を果たした。政界きっての論客として知られ、09年9月の政権交代で鳩山由起夫内閣の行政刷新担当相に就任し、税金の無駄遣いを洗い出す「事業仕分け」を担当。一時、国家戦略担当相も兼務した。菅直人内閣では官房長官を務め、外交、内政の政策調整を一手に担った。96年から09年まで民主党徳島県連代表を務め、県内政界で圧倒的な存在感を示した。
た
一つの選挙区でおおむね3~5人を選ぶ選挙制度。衆院選では戦後まもない1947年から93年まで続けられ、自民党内や保守系の争いが激しく、当落だけでなく順位にも関心が集まった。徳島全県区(定数5)では、元首相の三木武夫氏と、元副総理の後藤田正晴氏らが激しいトップ争いを繰り広げた時代もあった。
2020年国勢調査(確定値)の結果を基に算出した徳島県議会各選挙区の議員1人当たりの人口格差が、最大で3・45倍となった。15年の前回調査時の3・10倍から拡大した。議員定数は38で、議員1人当たりの人口は1万8935人。選挙区別では、議員1人当たりの人口が最少は那賀(定数1)で最大は徳島(10)だった。公選法は、選挙区内の人口が県全体の議員1人当たりの人口の半数以上に達しなければ、隣接選挙区と合区しなければならないと定め、特例で存続できる。那賀は11年4月の県議選から特例を適用している。面積が広く、地元議員がいなくなると、地域の意見が県政に届かなくなるというのが主な理由。過去には、勝浦選挙区が特例で存続された後、小松島選挙区と合区になったケースがある。
県発注の公共工事を巡り、コンサルタント会社の代表取締役から現金800万円を受け取ったとして、2002年3月4日、知事だった圓藤寿穂氏が収賄容疑で東京地検特捜部に逮捕された。逮捕から10日後の3月14日、県議会議長に辞職願を提出。4月に行われた出直し知事選には、3人が立候補し、元県議の大田正氏が、自民党が支援する女性ら2人を破って初当選した。
非保守系の知事だった大田正氏に対し、自民党系などの3会派が2003年3月、「県政に混乱を招いた」として不信任決議案を提案した。不信任決議案の成立には、通常の議案と異なり、3分の2以上の出席で4分の3以上の賛成が必要。野党3会派と中立の1会派が賛成し、可決された。知事不信任案の可決は県政史上初めて。不信任された首長は議会を解散することができ、しない場合は失職する。大田氏は議会を解散せずに失職し、5月に知事選が行われた。知事選は通常選挙の01年、汚職事件で逮捕された知事の辞職に伴う02年に続いて3年連続となった。総務省出身で前県部長の飯泉嘉門氏が、大田氏らを破って当選した。
参院選比例代表で、政党や政治団体が優先的に当選させたい候補者をあらかじめ決め、個人の得票が多い順に当選が決まる「非拘束名簿式」の候補者より上位に扱われる。政党が議席を獲得した時点で、優先的に当選人となる。自民党が合区対象県の現職を救済するために新設を主導して創設された。初めて導入された2019年では、徳島・高知選挙区の候補者調整で比例に回った自民党の三木亨氏が特定枠で当選した。
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衆院選では、小選挙区と比例代表の両方に立候補が可能で、小選挙区で敗れながら惜敗率によって比例代表で当選するケース。小選挙区で敗れながら、比例で当選して議員となるため、有権者からは「なぜ落ちた議員が当選するのか」といった批判もある。2021年衆院選では、徳島1区に立候補していた4人のうち、2人が復活当選し、小選挙区で当選した1人と合わせ3人が衆院議員となった。
当選に最低限必要な得票数。この数を満たさなければ、全候補の中で最も多くの得票を獲得しても当選人と認められない。公職選挙法で決められ、衆院選小選挙区は有効投票総数の6分の1、都道府県議会議員選挙は当該選挙区の有効投票総数を議員定数で割った数の4分の1などとなっている。供託金が没収される票数とは異なる。2021年衆院選徳島1区では、日本維新の会の吉田知代氏が、小選挙区の法定得票数には満たなかったものの、供託金が没収されない票を得ていれば比例で復活当選できるため、当選人となった。没収されないためには有効投票総数の10分の1(10%)以上の票が必要で、吉田氏の得票は有効投票総数の10・1%だった。
旧建設省(現国土交通省)が木頭村(現那賀町)の那賀川に計画した多目的ダム。1971年に計画が明らかになると、村民は反発し反対運動が広がった。国・県と、村の対立が続き、村内も賛成、反対派で揺れた。93年に藤田恵村長が誕生してからは、反対運動が激しくなり、ダム阻止条例の制定や、ダムに依存しない村づくりを掲げた村総合振興計画の策定などに取り組んだ。97年には、亀井静香建設相が衆院予算委で「牛のよだれのようにずるずるとやるわけにはいかない」と発言し、計画見直しを示唆した。2000年11月には扇千景建設相が中止を正式に発表した。進み出したら止まらないと言われた大規模公共事業が中止となった事例として全国的に注目された。
ま
1907~88年。旧御所村(旧土成町、現阿波市)生まれ。明治大卒業。1937年の衆院選に全国最年少の30歳で初当選し、以来連続19回当選。この間に逓信、運輸、通産、外務、環境の各大臣や副総理などを務めた。74年12月、金脈問題に伴う政治危機で田中内閣が退陣した後、自民党副総裁の椎名悦三郎氏の「新総裁は清廉で党近代化に取り組む人を」との裁定で首相となった。徳島県出身者としては初めての首相。76年まで務め、“クリーン三木”の旗印を掲げ、政界浄化のため政治献金の限度を厳しくした政治資金規正法を改正したほか、ロッキード事件の究明に努めた。
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吉野川の第十堰を取り壊して、新たに可動堰を建設する国の計画に疑問を抱いた住民が、1998年9月に「第十堰住民投票の会」を結成。住民投票条例の制定を求める署名活動を行い、徳島市長に直接請求した。市長から招集された徳島市議会は99年2月、可動堰化計画の賛否を問う住民投票条例案を否決。4月の市議選で条例案賛成の議員が多数当選して過半数を占め、6月定例会では再び条例案が審議され、賛成多数で可決された。住民投票は2000年1月23日に実施され、計画反対が10万2759票、賛成が9367票となった。当時の小池正勝市長は「市民の意見を尊重する」として反対を表明。計画はその後、白紙となった。
2017年衆院選の徳島県内の小選挙区投票率。戦後最低となり、全都道府県でも最低となった。徳島1、2区とも、候補者の顔触れに新鮮さを欠いた上、投票日は台風21号が接近し、荒天に見舞われたことが影響したとみられる。民主党が政権交代を実現した09年衆院選では、徳島県の小選挙区投票率は70・11%に上った。以降は急落し、21年衆院選は、前回を上回る53・86%となったものの、全国平均(55・93%)を下回った。